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谷川栄治のアメリカ修業奮闘記

アメリカ修業・奮闘記①

たにかわスポーツ疾患研究室

これまで様々なケガの治療に携わらさせて頂きました。

 

特にジュニアアスリートに限っては関東一円の他、

全国から来院して下さる事も度々あります、

夏休みや長期休暇の時期は海外からわざわざ治療を受けに来てくれます。

私が行っている治療は物理療法がメインです、

今回はこの微弱通電についてお話をしたいと思います、

 

・微弱通電治療のきっかけ

・驚異的な回復力のしくみ

・10年研究して来た感想

・微弱電気を操る

他、など、

 

物理療法とは簡単に説明すると・・

「生体に物理的刺激手段を用いる療法です。」

中でも、「微弱通電治療」を10年追いかけて来ました。

治療法は開業から一貫して来ました。

本当に素晴らしい治療法だと信じています。

 

これまで手術適応と診断された方が手術を回避し回復したり、全治、1、2ヶ月と診断された方でも平均3回の治療で回復するに至る事が、数えきれない症例を出してこれました。

まだまだ理想に届かない症例もありますが、ここはこの先の課題でもあり楽しみでもあります。

私にとってこの微弱は、大人になって与えられた玩具だと思っています。

良い物は生涯残ると信じております。

様々な治療法はあるかと思います、

なぜこの治療にこだわるのか・・

 

ルーツは、私自身のケガが奇跡的に回復した事が原点でした。

その日は雨で、5メートル程の高さから転落し、全体重を片手に加に加えてしまい負傷しましたが、そのまま運動を続けてしまいました。

結果、、

後々痛みが引かず当時勤務していた病院の先生にも診て貰ったり、手首で有名な先生がいると聞けば他の病院を転々訪ねたり、行き気付けば有名なK大学病院の手首日本一と言われる先生に辿り着きました。

しかし手術しても完全には治らないと診断されました。

当時はそう言う物なんだと諦めてました、そしてこれが日本一なのか・・。

この時、そんな悲壮感を感じました。

 

思えば・・・

現在、私が開発したスパイク治療の原点はここにあり、

そして、

ある先生との出逢いが、アメリカへ渡る人生の乗り換え切符となったのでした・・・。

 

アメリカ修業・奮闘記②

当時、私は総合病院でのリハビリ室で勤務しておりました。

2007年頃だったでしょうか、現代の接骨院ではあまり外傷を扱える院は少なく、いわゆる接骨院での勤務はありませんでした。

ここのリハビリ室でも入院患者さんのリハビリが中心でしたので、どちらかと言えば脳の高次元障害のリハビリが主で外傷は少なかったです、

その後、赤羽のクリニックに移りましたが、この時代が私の研修時代ではとても良い仲間たちに恵まれての勤務だったと思います。

 

普段はリハビリ室でケガの回復をお手伝いする業務をしつつ、時々院長に呼ばれては処置室で骨折治療の補助や、レントゲン撮影のアセッテの設定やギプスカットなど、

特に初めてのギプスカットは患者さんの皮膚に傷がつかないか、緊張して汗だくになってやった覚えがありますが今では数千件以上もこなせる様になのもここでの研修があったっからです。

 

【クリニック勤務時代】

 

実は当時、二足の草鞋を履いておりまして・・・

午前中のみクリニックで勤務をして午後は体育の家庭教師をしておりましたので、午前診療が終ったら足早に関東一円の至る所で、運動が苦手な子からの依頼を受けては様々な事をマンツーマンで指導していました。

水泳、かけっこ、野球、サッカー、逆上がり、自転車の補助輪なし練習とか・・・

 

私は事務所の体育館での指導ではなく外回り担当でしたから、オリジナルのアイデア道具を巨大なバッグに詰め込んで学校の校庭や広場や公園でやってました、

どんな子が多いかと言えば・・・

 

小学生が中心でしたが、

・全く泳げない子を1週間で水泳25m出来るようにする

・運動会前にライバルに勝ちたい

・鉄棒の逆上がりを出来るようになりたい

・野球のチーム練習の補助練習

・側転、マット運動の大学の単位取得

・幼稚園児の私立お受験体育対策

などなど・・

 

この頃はどちらかと言うと仕事よりも、こっちの作戦ばかり考えてた様に思います^^

今思えばここでの経験がジュニア期特有のケガをしやすい動き、それをかわす動きのクセが養えたのかも知れません。

そして、この二足の草鞋生活ともう一つ夢中になった物があり、ついに、あのケガに見舞われる事になりました・・・。


アメリカ修業・奮闘記③

それは雨のでした・・。

 

当時はある番組の予選オーディションに軽い気持ちで応募、

書類審査4000人、予選会200人でしたかね、今でも人気の競技番組です。

で、本戦が決まったのでその練習をしていた時でした、

 

当時は江戸川の橋の鉄橋を命綱無しで上まで昇ったり、

3メートルの高い壁があれば跳び越えたり、

10メートルのロープがあればぶら下がったり、

今では通報される様な内容ですが、本番を想定してやってて、

それで雨の日、5メートルの高さから滑って手を着いたら痛くて、

骨折でもすれば良かったのですが、中途半端に腕は丈夫で、

でも本番の収録も1週間後に控えてて、練習もやりながらの出場になりました。

 

結局、結果はしょっぱい内容で痛みは2週間経っても残ってて、

当時、働いていたクリニックでまず診て貰い、治らない原因が分からず、他の病院でも数件診て貰い、ダメ、

結局、手首日本一と言うK大学病院の先生にまでたどり着いたのですが、手術を勧められました、

完全に治るかどうかは分からないと診断を受けた。

今思えばこの一言が自分の人生を一変した事と思います。

 

ある日、ジムで汗を流していたら、テーピングぐるぐる巻の手を見て

「どうしたの?」と話しかけられて、

今、通ってる良い治療院があるから行って見たらと勧められた、

この時は半信半疑でした、

治療は最良のシステムを搭載した微弱電気を使い行う、

2回通いあまり変化も見られなかったので、一旦、通院を辞めた、

しかし、たった2回でこの半年間痛みが消えなかったケガが治るわけがないと考え、半月後に再診を受ける。

結局、腕は完治した。

 

そして・・・・

この痛みはなぜ消えたのか?

原因はどこにあったのか?

細胞の中では何が起きたのか?

その後、色々考えて微弱電気通電の可能性を追い求める事になった。

 

私は当時、良い治療家になる為に病院で働いて色々学んでいた、

困っている人をこれから沢山見れる様になる為にはどうしたら良いのか?

病院で勤務していればいつかは身につく物と思っていた、

ただ、痛みの真髄は薬や痛み止めでごまかし、本当の痛みを診る事は出来なかった。

そして、決断をする。

 

日本一と言われた先生との出逢い、自分のケガによって抑え切れない程湧き上がる好奇心、

世界にはどんな治療があるのか?

ある日、医療雑誌を読んでいて世界で活躍する先生を知る、

アメリカ・イリノイ州 シカゴ

直ぐに先生へ手紙を書いた。

 

まもなく・・

返事が届いた、

今でもその感激は忘れられません、

何か新たな一歩踏み出す切符を手に入れた様な感覚でした、

私には妻も子供もいましたが、許してくれた家族には生涯、頭の下がる思いでした。

 

そして・・・

アメリカ行きを決断する、34歳の夏でした。

 

アメリカ修業・奮闘記④

クリニック最終日・・・

今日で最後の勤務になりました。

 

リハビリ任務中に顔なじみの患者さんから、小声で、

「これ持ってて。」

そう言われティッシュにくるんだ1000円札が2枚、

他にも患者さんからお気遣いを頂戴したり、スタッフから労いの言葉を頂いたり感謝しきれませんでした。

最後に院長に挨拶に行き、釣り好きな院長へは、ルアーをプレゼントしましたが、いつもの仏頂面の表情からでは特にいつもと変わらぬ最後となりました。

そして、同時期に受け持っていた体育の家庭教師の子供達、最後の追い込み指導でどうにか任務を終了とし、日本を後にしました・・・。

 

アメリカに向かう途中、難問クイズの答えを探しに行く様なワクワク感、この先を占なうかの様に、搭乗機の隣の席にはイリノイ州の22歳のお兄さんが韓国からの乗り継ぎで一緒になり、機内酒を交わしながら到着までの約9時間を有意義に過ごしました。

 

 

シカゴでは早速、日本人でカイロドクターとしてクリニックを開業されている先生の元へ訪ねました。

日本ではカイロは民間資格ですが、アメリカではドクターオブ・カイロプラティックDC

4年生の大学を出て医師と同じ資格でレントゲン撮影も出来るのです。

 

 

そんな先生を訪ね、いよいよクリニックに入るなり元気な声で、

「Hello!!」

奥様です。

先生は現地の方とご結婚されたそうです。

先生自からクリニックを案内してくれましたが、施術室が幾つあるのか?と思うほど広くスケールのデカさに驚き、少しお話をした後、クリニックの目の前のサブウェイでサンドウィッチを買いに行き、また、色々話し込んでくれました。

診察室で、ドデカいサンドウィッチを食べながら、私は少し緊張気味に現地での事を色々と聞かせて頂きました。

 

【NAKAMURA・DC】

 

先生はどうやってここで開業されたのか?

どんな疾患を抱えた患者さんが多いのか?

 

そして、夢中な時間はあっという間に過ぎて行く中、先生の施術も見させて頂いたりと、大変貴重な研修となりました。

 

【良く通った・シカゴピザ】

 

次回はいよいよ微弱通電の原点になったカルフォルニアへ向かいました。

 

アメリカ修業・奮闘記⑤

お世話になったイリノイ州シカゴを後にし、ユナイテッド航空でカリフォルニア州サンディエゴへ、フライト時間は4時間。

空港を降りると、そこはまるで南国の様相、コンクリートで固められたシカゴのダウンタウンとは全くの別世界。

住みたい都市ランキング全米トップ、アメリカ西海岸にあるサンディエゴはさすが地上の楽園と言われる都市だ。

私の滞在地は南カリフォルニア随一のゲイタウンとしても有名な、ヒルクレスト。夜は別の意味で賑やかしい^^

 

【長くお世話になった宿泊先studio819】

 

しかし、年間を通して殆ど雨は降らない、カラッとした天候が私にはしっくりする程過ごし易かった。

ハリウッド女優の別荘が立ち並ぶ、コロナドビーチやミッションビーチも有名です。

 

 

そして、この地で微弱通電を追い求める旅が始まった。

 

ここでは微弱通電治療の権威とも言える、Ryu kawjiri氏にお世話になる事になる。

朝から先生のクリニックで毎日の診療を診させて貰い、

昼に先生と昼食を取りながら質問、

午後はまたクリニックで診察を学ぶ。

当然、患者さんとは全て英語、ネイティブな会話に殆どついて行けない中、一ミリもこぼさずメモ書きの毎日。

 

 

なぐり書きをしたメモ帳を、宿舎に帰って忘れないうちに正書書き、

 

 

こんな生活が毎日続いた、

 

たまの息抜きは、住居から程近いバルボアパークまでのジョギングと公園の芝生でなまった身体を動かす。

 

【バルボアパーク自然史博物館】

 

夜には徒歩2分のワインバーのカウンターに座り、一飲みしてからの情報収集の為、誰か構わずお客さんに話しかけてた。

 

【ヒルクレストの夜の街】

 

時々来てた整形外科の先生とも仲良くなり、

「明日、私のクリニックに来なさい。」と言われサンディエゴ市内の病院へ行ったりもした。

休みの日には他に、地元の新聞を読んで広告をチェックしては様々な病院をあたった、直接行って診察を学びたいと伝えては回った、

 

2009年当時はアメリカでインフルエンザパンデミック(H1N1)が拡散し

容易に受け入れてくれるところは殆ど無く、まして発症もカルフォルニア南部の子供から新型インフルエンザが発症したと

当時WHOでも発表されていた為医療機関は他国の受け入れを警戒していた。

 

【毎日通ったホール・フーズマーケット】

 

当時は微弱通電の治療を学びながら、世界の診療事情も学びたいと思っていた。

日本に帰って開業したら、もう自由に学ぶことが難しいと感じていたからだ、

そんな中、ある先生と出会う・・。

サンディエゴにはかつてSONYのサンディエゴ工場があり、その巨大なエリアにSONY村と言われた場所があった

当時は既に存在しなかったが、その地で現地の日本人が通う信頼される先生がいたのだ。

 

ここは勿論、片っ端からあたって最後に辿り着いた病院だ、

電話の受話器越しに・・・

「Hello」

看護師の方が優しく出てくれた、

途中まで英語で話してたが・・・直ぐにバレた(笑)

で、

実直に思いを伝えたら、

先生から、

「水曜日、来れますか?」

と有り難いお言葉を頂いた。

金一東(キム・イルドン)院長からだ、

いてもたってもいられなかった・・・。

先生は、内科、小児科、スポーツ障害も診られているサンディエゴでは有名な先生、

その日、約束してた同じ住居のイタリア人カップルとの共有スペースでのプチ晩餐会をキャンセルし、夜中まで挨拶文を何度も書き直しては読み直した。

そしてその日が来た・・・・。

 

アメリカ修業・奮闘記⑥

そして日本クリニックでの初日。

サンディエゴ・コンボイストリートにある、日本人在住、駐在員の診療所、

 

 

前述した様に現地に駐在する日本人や、近隣の方々の信頼を置く医院だ。

 

初めてで飛び込み訪問にも関わらず、金一東(キムイルドン)先生が暖かくお出迎えしてくれた、笑顔が絶えない先生です。

 

この日は、沢山の院内棟を回らさせて頂いたのと、診察も立ち会わさせて頂きました。

日本から持参したケーシーの白衣を纏い、来院した小児の内科疾患などやはり緊張しながら

また、真剣に説明をして頂いた先生には感謝しかありませんでした。

 

 

診察終了後、スタッフを紹介して下さりそのスタッフ数名でまだ午後7時だと言うのに太陽が沈まないサンディエゴのミッションビーチへ連れてって貰い、帰りにお洒落なお店でコーヒーを楽しみながら、仲間の皆さんと楽しいひと時を過ごしました。

 

日本から来た無名の男の為に、予想を越える歓迎をしてくれた初日

西海岸のミッションビーチのデカい夕日に日本でのこれからの治療道に情熱を持つと心から誓いました。

 

そして2日目はクリニック内の鍼灸部屋で診療をしているジャッキー先生の治療を受けたり、また他の研修生も訪れていたので共に情報を共有しながら将来の事を遅くまで話しました。

 

【2016年にサンディエゴで再会した金先生と神部先生】

 

研修医の神部先生は移植専門を目指す医学生、日本に於ける年間臓器移植件数は300件程に対し、アメリカは2万件以上だそうです。

 

近い将来この地で移植のプロフェッショナルを目指すホープ。

 

 

金先生には様々な事を教わりました。

私にとって学ぶ事と以上に大きな出逢いでもありました。

今でも診察の時に外傷ではない痛みへの対応はここで生かされてると実感します。

それは開業1年目、腰痛ギックリ痛と訴える男性患者さんが来院、

様子がおかしいと血圧を測り足のしびれが異常で血管の疾患ではと考え、診療中でしたが、院を閉めて体重60キロほどの患者さんを担いでタクシーで搬送、救急の窓口で事情を説明して病院を後にしました。

 

翌日、息子さんが挨拶に来られ・・・

結果、大動脈解離であった事が判明、数十分遅かったら命に関わる内容でした。

当時、そのまま腰痛の治療を行っていたら、今の私は世に存在してなかった事でしょう。

 

偶然でも人との出会いは必ず後に意味がある

こう考え始めたのもこの頃からでした。

 

2011年にフィギュアスケートの選手が来院、当院にとって初めてのケース。

スケーターはどこの病院に行っても理解して貰えない痛み、

この時、自分にやれる自信と使命感を直感しました、

後に多くのスケーターが来院し専門外来を設ける事になり、オリンピンも来院されました。

 

私自身も沢山学ばさせて頂く事にもなりました。

やはり出会いは後々の予兆と今も信じています。

さて、サンディエゴ滞在も一日一日が目から鱗の日々、

この後、またエキサイティングな出逢いが待っていました・・・。

 

アメリカ修業・奮闘記⑦

今回の旅は様々な人との出逢いに恵まれ、これから始まる生涯誓った治療家ライフの背中を後押しされ揺るぎない勇気が沸々と湧き起る、そんな旅路。

そして今回の滞在で忘れてはならない人物がいる、

私のサンディエゴ滞在中に現地で多くのサポートをしてくれた友人アツシだ。

彼とは現地で初めて会う事になる。

遡れば、微弱電気通電の権威、カワジリ氏が私がサンディエゴに来ると言う事で、

当初から現地で用意してくれていた、言わば案内役だ、

現在では家族同士仲良く、サンディエゴにも遊びに行ったり、今では子供の進路相談もさせて貰う仲です。

 

 

彼はアメリカの難関トレーナーのATC資格を持ち、当時は鍼灸師の学校にも通っていました。

 

彼には本当に現地でお世話になってね、UCSD(サンディエゴ大学)や現地の医療系大学にも連れてって貰ったりもした。

勿論、現地での食事も楽しませて貰った。

そしてある日、彼と向かった先は・・・

飛行機で2時間、アリゾナ州フェニックスのある施設に向かった。

 

 

アリゾナはまるで砂漠に近い乾燥地帯、インディアンも出て来そうな移民も住んでいるそうだ

 

 

一年中雨も殆ど降らないから、木々も乾燥地帯特有の樹木が並び樹木の化石があるほど、飛行機の丸窓からはまるで砂漠の広大な景色が広がる。

 

そんな広大な敷地にポツンと巨大な施設が存在する、

周囲からは見分けられない様に外壁は全て真っ黒で窓も殆ど無く、まるで隠れ屋敷。

 

そこに世界中のアスリートが集結しフィジカルトレーニングや、肉体改造を目的にメジャーリーガーやNFL、NBA,ゴルフ、水泳、

日本からもプロフェッショナルな選手が来る、

そしてそれらの選手を管理指導する世界一のトレーナーに会う事になった。

高いセキュリティのドアから二人の名前を伝え、ついに中へ入る事になった・・・。

 

 

アメリカ修業・奮闘記⑧

ついに、世界中のアスリートの秘密特訓所アスリーツパフォーマンスに入れた。

 

入口すぐに・・・

IMPOSSIBLES IS TEMPORARY

「不可能とは一時的な物だ。」

 

モハメド・アリの娘レイラがお出迎え。

 

ここは世界の何十億と稼ぎ出す超一流アスリートと、それを指導する超一流トレーナーが集結する

いわば、現役エリート養成所

 

 

広大な敷地面積に、陸上トラック、アメフトフィールド、室内競技場が沢山ありここでオフシーズンになると日本からもトップ選手が訪れる。

 

 

選手を目の当たりにし、この施設を案内してくれたのは・・・

 

 

現地でご活躍されている咲花正弥トレーナーでした。

 

 

実は咲花トレーナーは有名な方で、ちょうど2008年から2010年ドイツ代表のフィジカルコーチを務め、サッカーワールドカップドイツ代表と2度現地で経験した唯一の方、

また、室伏広治さんと共著でも有名です。

 

2018年より日本に戻りヴィッセル神戸のフィジカルトレーナーに就任されています。

 

 

私がサンディエゴ行きが決まった時に、リュウ・カワジリ氏が段取りを組んでくれていた。

何ともサプライズでした。

 

【咲花正弥トレーナーと】

 

ここで学んだ事は、私の治療道に於いて大変貴重な経験となりました。

世界のアスリートがどの様に身体を作りげているのか、また、食事や栄養摂取のタイミングと試合に挑む選手のバイオリズムのピークの仕上げ方。

 

私は日本で診療をしているのですが、単純に日本が大好きで日本の文化や環境が優れているから治療も満足の行く施術が行える事、

でも、いつかはどのタイミングか、それが叶えられないかもしれませんが、自分の技術を他国の各分野で試したいと言う夢は常に持っています。

アリゾナで見た選手やそれを支えるプロフェッショナルの方々、この時、更に心に火が灯りました。

あれから10年・・

今はコツコツと自分の可能性調べと自分の信じた治療を、追い求め、その答えが出る瞬間をじっと待つのみです。

 

【サッカークラブチームの仲間と】

 

アメリカ修業・奮闘記⑨

アメリカ修行滞在記・・・。

シカゴ、サンディエゴ、アリゾナと渡り歩き、

あれから10年・・・

幸運にも様々な人々との出会いがあり、その経験を生かしこれまで多くの方々の治療に携わらせて頂きました。

 

帰国後、自院を開業し治療のスタイルは、微弱通電治療を柱にケガの修復に取り組んで来た。

そして、症例も様々取り組んで来た。

特にスポーツ疾患や手術適応の疾患まで・・。

 

【2010年・開業2年目スタッフも増え】

左後:歯科医師:市川先生、中央後:鍼灸山田先生。

 

私が行って来た微弱通電治療とは・・・

一言でいえば、「修復」・「自己再生」治療です。

 

人間には体内に弱い電気が流れている。

そして100億と言われる脳細胞にも沢山の電気が流れており、手や足を動かす際はその弱い電気信号(インパルス)が、神経伝達物質(シナプス)を伝い手足の動きや内臓の働きを指示する。

 

単位はμA(マイクロアンペア)だ。

 

通常の接骨院や病院で使う電気治療(低周波)とは別に考えて欲しい。

反対に手足で感じた感覚を脳に伝える際も同様のしくみだ。

そして「ケガ」をした際にもこの損傷電流が体内の損傷細胞の周辺で高く発生し修復活動が行われるしくみだ。

この微弱電気をいかにコントロールするかで治療成績が大きく変わる、勿論、画像検査はセットで行う必要がある。

 

 

そして現在、治療と並行して研究している事がある、

 

「脳」である。

 

痛みを感じる所はカッターで切断した皮膚でもなく靭帯でもない、感じるのは「脳」だけ。

そしてここからモルヒネの7倍と言う痛みを抑える物質も出ている、それが「βエンドルフィン」だ。

*脳の側坐核と言う所から発生する。

 

これらも末梢から微弱電気で信号を送ると発生する事が分かって来た。

(*他にも出るしくみが多々ある様です。)

 

また脳内では常に電気信号が行き来している、

恋愛でもそう・・

 

「一斉に電気を発生させるぞ」というメッセージを伝える「ドーパミン」。

素敵な人をみてテンションが上がったりしたときに出されるこの物質ですが、これが脳内にばらまかれると、電気信号の伝わり方が活発になり、神経細胞は一気に活性化していきます。

 

メッセージ物質のさじ加減ひとつで、電気信号の伝わり方に無数とも言えるバリエーションが生まれてくる。

「ひらめき」を生み出す原動力も瞬間的に大量に発生した時と考えられています。

近年の研究では脳ドーピングと言われ脳に弱い電気を流しながら筋トレしたり、数学の計算も早くなるとオックスフォード大学の論文に書かれていた。

アメリカでは金属(銅・亜鉛)の薄い板が付いた絆創膏をケガした指に巻き、関節を動かすと微弱電気が発生し4倍ケガが早く治る物まで出ている。

 

では、一旦止まった細胞ではどうか?

すなわち細胞の活動が止まってしまった植物や生花、

9年前から水分と微弱通電で趣味程度にやっているのは、バナナの実験です。

 

 

微弱通電を繰り返す事で脳の存在しない

停止した細胞から新たな細胞が再生出来るのか?

 

 

平成22年より着手していますが、まだその答えは確立出来ていません、

 

しかし・・・

【9年前のバナナ】

 

なぜか、同じ時期に保存したバナナより、定期的に通電した方の水分量が2倍多く残っています。

 

次回は更に微弱通電のこれまでの臨床成果について記します。

 

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